ショパンはマヨルカ島で24の前奏曲、バラード第2番、軍隊ポロネーズ、
その他いくつかのノクターンやワルツ等を作っています。 その中でも私が気になっていたのはソナタ第2番の葬送行進曲も マヨルカで作ったらしい、ということです。 実はこのような絵がありまして、 これはバルデモサ修道院のお墓の様子なのですが、ジョルジュ・サンドがよく ここで執筆をしていた、という話なのです。 この絵の中の女性はジョルジュ・サンドです。 きっとショパンもこのお墓で時間を過ごしていたと思うので ここであの葬送行進曲を思いついたとしてもおかしくないな、と思ったりして。 とくにソナタ第2番の第4楽章は多くの人達に「墓の上を吹き荒れる風」と 評されることが多いのですが、たとえショパン自身がそう言わなかったとしても 一度このバルデモサのお墓の風を聴いてみたいなぁ、と思ったのです。 今そのお墓はどこにあるのでしょう? 博物館のおばさんに訊いてみることにしました。 まだ新米だというおばさんに訊いてみるとこのような地図を見せてくれました。 この地図右下にある小さな四角、cementerio antiguo、と書いているところが ショパンがいた時代のお墓になります。現在では博物館の入り口前の広場の所です。 ちなみに現在の様子はこんな感じ。↓ 実際に立ってみると風の吹き付ける広場でした。 勝手にお墓に吹く風を想像しながらその様子をビデオに収めました。 こちらです。皆さんもショパンが聴いたお墓の風を想像してみて下さいね。 #
by nomokon
| 2013-03-03 23:22
| Chopin
ショパンはマヨルカ島へ行く際、バルセロナより蒸気船に乗り、
帰りもバルセロナに寄っています。残念なことに帰り道では 結核である(それが事実だったかどうかは不確からしいですが)ことを とても嫌がられて家畜と一緒の船に乗せられ、船からろくに降りることも できずに過ごしたようです。 帰り道を考えると悲しくなるので旅行始めの楽しいほうを考えましょう! 1838年11月2日夕暮れ時、ショパンはバルセロナに到着します。 フランスから陸路で着いたのかと思っていたらポール=バンドル (Port=Vendres)という街から船で来ています。 ピレネー山脈を馬車で越えるのは無理だったのでしょうね。 今でも存在するランブラス通り40番地にあるクアトロ・ナシオネス (Cuatro Naciones)というホテルに泊まっています。 ジョルジュ・サンドは“全然よくない”と文句を言ってたようですが ちゃんとしてそうなホテルなのに。。。 ランブラス通りとはバルセロナの中心から海へ向かって伸びる、多分 バルセロナで一番有名な通りでいつも散歩する人達でいっぱいです。 ショパンがいた頃のランブラス通り、ホテルのすぐ横の様子です。 そして翌日11月3日にはリセウ劇場にオペラを観に行ったようです。 きっとリセウ劇場向かいのカフェ・デ・オペラでお茶したに違いないし、 すぐ近くのレイアール広場も散歩したに違いありません。 11月5日と6日はアレニス・デ・マル(Arenys de Mar)という街のある 海岸地帯周辺に遊びに行ったそうです。(多分この時代のバルセロナは港町 ではあるけれどビーチを楽しむことはできなかったのだと思います。) そして11月7日ショパンはマヨルカ島へ向かって蒸気船マヨルキン号 (Mallorquín)に乗りました。 #
by nomokon
| 2013-02-21 17:46
すっかりご無沙汰してしまいました!
あっという間にリサイタルまであとわずか、となってしまいました。 ブログもギリギリから再スタートになりますがよろしくお願い致します! 今日は取り急ぎコンサートのお知らせまで。 3月8日(金)札幌コンサートホールKitara小ホールにて、 18:30会場 19:00開演 チラシはこちらからご覧になれます。 www.pianoworks.jp/pdf/akiko_nomoto20130308.pdf チケット等のご案内はこちらから。 www.kitara-sapporo.or.jp/event/?p=28362 よろしくお願い致します! #
by nomokon
| 2013-02-20 09:33
| ごあいさつ
さて、前回はファリャの話をしていたのでした。。。
今日はファリャが編曲したショパンの曲をご紹介します。 ショパンがマヨルカ島で作ったバラード第2番Op.38を 合唱用に編曲した「マヨルカのバラード」 soundcloud.com/akiko-nomoto-2/25-balada-de-mallorca ショパンの曲をオーケストラに編曲にし、マヨルカでオペラとして上演する つもりで作られた「Fuego Fatuo(狐火)は未完に終わりましたが1976年 ファリャの生誕100周年の年にグラナダの音楽祭にて初演されました。 ワルツやマズルカなどショパンの作品9曲が編曲されて残っています。 soundcloud.com/akiko-nomoto-2/17-el-fuego-fatuo-ix-moderato http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_2/375-7348890-7040449?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=chopin+fuego+fatuo #
by nomokon
| 2013-02-20 09:09
| Manuel de Falla
前回のつづきです。
マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)はアンダルシア、カディス市の 生まれで母にソルフェージュを、祖父にピアノを習うという音楽教育に熱心な 家庭で育ちました。20歳の時、一家はマドリッドに引っ越し、彼は王立音楽院 で勉強を始めます。 その頃作曲していた曲は、スケルツォ、ノクターン、マズルカ等で、 後に花開くことになる彼のスペイン民俗音楽的な作風を時々一瞬かいま見る ような気もするのですが、まだ彼の個性は芽生えていません。 1896年作曲のノクターン。ショパン風です! そんな彼にスペイン民俗音楽へ目覚めさせたのは作曲を教えていたフェリペ・ ペドレイ(ペドレル)でした。ペドレイはスペイン国民楽派の第一人者で 彼の弟子にはグラナドス、アルベニス、トゥリーナ等がいます。 王立音楽院時代はファリャが世界的にも有名なスペインを代表する 作曲家に変身するまでの模索の時代、殻をつけたひよこ時代?みたいです。 このマドリッド修業時代のファリャの作品のことを詩人ヘラルド・ディエゴが 「Premanuel de Antefalla (プレマヌエル・デ・アンテファリャ)」と 名付けました。PreもAnteもスペイン語で「〜前の」を意味する接頭語です。 「マヌエル前のファリャ前」?みたいな感じでしょうか。 まるで紀元前、紀元後、と言うように、ファリャがファリャになる前の時代を ユーモアと愛情をこめて言い得た見事な言葉だと思います。 ☆スペイン民俗音楽と言うべきか民族音楽と言うべきか迷ったのですが ファリャはその後フラメンコ(カンテ・ホンド)の採譜等をしてそこから 影響を受けたので民俗にしてみました。 #
by nomokon
| 2012-08-30 04:53
| Manuel de Falla
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